東京高等裁判所 昭和40年(ネ)218号 判決 1965年6月17日
控訴人 宮下建材工業株式会社 外一名
被控訴人 吉井輝二 外一名
主文
本件控訴をいずれも棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
控訴代理人は、「原判決中、控訴人ら敗訴の部分を取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述並びに証拠の関係は、控訴代理人において、「本件事故発生時、被控訴人らの長女吉井一代が幼稚園に通園の途中であつたことは認める。」と述べたほかは、原判決の事実摘示記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
控訴人天野昭吾は砂利採取販売並びに土木請負等を営む控訴人宮下建材工業株式会社に雇われ、ダンプカーの運転者として勤務していたところ、控訴会社の事業執行のため、昭和三七年三月七日午前八時四〇分頃控訴会社所有の砂利満載のダンプカーを運転して高崎市上佐野町九一五番地先道路を南進中、右道路右側(東側)を保育園に登園するため歩行していた被控訴人らの長女である吉井一代(昭和三二年一二月一二日生)に接触し、同女が右ダンプカーにその腰部を轢かれて死亡した事故が発生したことは、当事者間に争がない。
いずれも成立に争のない甲第四ないし第九号証、第一〇号証の一、二の各記載、原審証人柳田利雄、柴崎貞次(一部)、佐復フミ子、福山田鶴子の各証言、原審における控訴人天野昭吾、被控訴人吉井輝二の各本人尋問の結果、および原審における検証の結果を綜合すると、次の事実を認め得る。
すなわち、
1 前記事故は、佐野、岩鼻線と呼ばれる幅員約四、七米の市道が、ほぼ東西に走る幅員約一一米の国道一七号線とほぼ直角に交差して形成する丁字路の東北角にある電柱から約一、八米、北方の右市道上の東側の地点で発生したが、その附近は、市道を約五〇米北進したところに上佐野小学校が、更にその北方には城東保育園があるため、毎朝登校時には登校登園する児童らの通行の頻繁なところである。丁字路の国道上には二個の横断歩道が設けられ、一は国道を横断して市道西側に至り、他の一はその東側にあつて市道東側に至るものであるが、丁字路の東北角には前記電柱のほか、その東側に右電柱とほぼ同じ太さの桐の木二本が右電柱の北方の市道東側には右電柱の支柱と桐の木一本があり、丁字路の北西角附近には市道に沿つて高さ約一、七米の生垣、庭木などが植栽されているため、市道から国道左右への見とおしは悪く、ことに市道東側からは前記東側の横断歩道附近の状況を現認することは困難である。
2 控訴人天野は本件事故当時、高崎第二機関区操作場から右国道を西進したところにある沖電気まで砂利を運搬するため、前記ダンプカーを運転して右市道左側中央寄りを時速約二五粁で丁字路に向つて南進中、前記小学校正門附近を通過したところで、折から登校時のため市道の両側を歩行して登校中の多数の児童を認め、また丁字路附近において父兄らが児童の交通整理をしているのを望見し、時速一五粁に減速したが、たまたま市道東側に児童らの歩行がとだえたため、市道東側には危険の発生の虞がないものと速断し、自車をさらに東側によせ、市道西側を歩行する児童らにのみ注意し市道東側の注視を怠り、警音器の吹鳴はもちろん一時停止の措置をとることもなく、漫然前記速度のまま丁字路に差しかかつた。そのため、後記の如く十字路東北角の前記電柱のあたりから市道東側にでて来た吉井一代に気付かず、車体の前半が右電柱を通過するに及んで、漸く左側バツクミラーに自車車輛左側下に同女の転倒する姿を発見し、あわてて急停車の措置をとつたが、時すでに遅く、車は停止までに一、三〇米前進したため、左側後輪で同女の腰部を轢き、その結果同女は骨盤骨折、右大腿骨折により、間もなく同日午前八時五〇分頃死亡するに至つた。
3 吉井一代は当時、前記城東保育園に三年保育の二年児として通園していたが、園児らの登園の際は、園児の保護者が毎朝自宅から前記横断歩道の南側にある空地まで連れて行き、同園の保母において右空地に集合した園児らを保育園まで監護、引率して登園することになつていたので、本件事故当日の朝も、一代は被控訴人輝二に右空地まで送られ、同所で他の園児とともに保母を待つていた。同園の保母である福山田鶴子(昭和三四年七月から勤務)は右空地に集合した一代ほか二七、八名の園児を二列縦隊に並ばせた上、その中央のあたりにあつてこれを引率して前記東側の横断歩道を渡りかけたところ、右横断歩道の北側で待機していた同園の保母佐復フミ子が右縦隊の前半の園児一四、五名を受け止め、これを引率して後半の園児の列より先行して丁字路の東北角から北折して市道東側に入つたが、その際同保母は前方約五〇米の前記小学校の正門附近を進行してくる控訴人天野の運転するダンプカーを認めた。福山保母は一代の手を引いて残りの園児の先頭に立ち、横断歩道を渡つたとき、市道上を丁字路にさしかかつてくる前記ダンプカーを認め危険を感じたので、列の後尾にいる園児らに注意をうながすため後を振り向いたが、その際思わず一代の手をはなした。瞬間、一代は佐復保母が引率した先行の園児の列を追い、小走りで前記電柱を廻り北折して市道東側に入つた途端、右ダンプカーの車体左側前方に接触されたため、左側後輪の前に転倒し、前記の如く轢かれた。
4 控訴人天野が運転していた右ダンプカーは、幅三、三五米、全長六、三七五米、地上よりボデイーまでの高さ一、〇五米の大型貨物自動車で、運転者席は車体右側にあつて、車体左側にバツクミラーが装置されていたが、事故当時助手は塔乗していなかつた。
原審証人柴崎貞次の証言中、右認定に反する部分は措信し難く、その他に右認定を覆えすに足る証拠はない。
右認定の諸事実に基づいて考えるに、本件ダンプカーが本件市道上を進行するときは、道路の左右両側には僅かに各一米余の間隔を余すのみで、運転者席は車体右側にあつて且つ地上からかなり高い位置にあるため、車体左側の状況を確認し難い状態にあつたのに、助手の塔乗もなかつたのであるから、控訴人天野が本件ダンプカーを運転して登校時にあたる時刻に前記のような市道から丁字路にさしかかる場合には、いつでも直ちに停車し得るよう最徐行するのはもちろん、前方の注視のみならず車体の左右両側を注視し、時には警音器を鳴らし、または一時停止して左右の状況を確認するなどして、車体が歩行者らに接触しないよう万全の措置をとつて運行すべき注意義務があつたといわなければならない。しかるに、同控訴人は丁字路の手前約五〇米の附近を通過した際、市道の両側を自車と対向して歩行中の多勢の児童のあることを認め、かつ丁字路附近において父兄が登校途中の児童らの交通整理をしているのを望見して、時速一五粁(この速度では最徐行とはいえない)に減速したものの、市道東側に一時児童らの歩行がとだえたことから、漫然車を東側に寄せ、市道東側の注視を怠り、前記速度のまま丁字路にでたため、自車左側にでて来た吉井一代の姿を事前に発見し得ず、その結果本件事故を惹き起すに至つたのであるから、控訴人天野において自動車の運転者としてとるべき前説示の注意義務を怠つていたことは明らかである。そして、もし同控訴人において右の注意義務を怠たらなかつたならば、丁字路の手前において保母佐復フミ子の引率する園児の一団はもちろん、これを追つて来た一代の姿をも左前方に発見し、本件事故の発生を未然に防止し得たものと推認するに難くない。したがつて、本件事故の原因は、後記認定の如く保母福山田鶴子の過失も一因をなすとはいえ、その大半は控訴人天野の重大な過失にあるものと認めるのが相当である。
控訴会社は、控訴人天野の選任、監督につき相当の注意をなした旨主張する。原審証人品田巳作の証言、原審における控訴人天野昭吾、控訴会社代表者宮下定雄の各本人尋問の結果を綜合すると、控訴会社は日頃、その被用者である運転手らに対し、掲示もしくはチラシを配布して、事故防止についての注意を与え、また作業日誌により車を点検、修理すべきことを注意していたこと、および本件事故当日には、控訴会社主張の如く、土砂の積込現場ならびに本件市道上にある鉄道踏切のあたりに見張員各一名を配置して、事故防止のための措置を採つていたことを認め得る。しかし、右の各証拠に前記甲第一〇号証の記載を綜合すると、控訴会社は高崎第二機関区操作場の埋立工事を請負い、本件事故のあつた前日から控訴人天野の運転するダンプカーを含めて控訴会社所有のダンプカー三台を動員して、右操作場から本件市道を通り、前記丁字路を右折して国道を西進したところにある沖電気までの間を砂利などを運搬していたもので、右各ダンプカーは午前八時頃から午後五時頃までの間、一日平均それぞれ約一六往復しており、引き続き本件事故当日も午前八時頃から砂利などを運搬していたのであるから、控訴会社としては登校、下校時に当つては、少なくとも本件丁字路附近にも見張員を置くか、または助手を塔乗せしめて、控訴人天野らのダンプカー運転者が本件丁字路附近を無事通行できるよう指示もしくは補助せしめる程度の措置をとり、もつて控訴人天野らの運転につき監督をなすべきが相当であつたといわなければならない。したがつて、控訴会社が前記のような措置をとつたことだけでは、まだ控訴人天野の監督につき民法第七一五条第一項但書にいう相当の注意をなしたものとは、とうてい認め難いところである。控訴会社の右主張は採用できない。
そうすると、控訴人天野は直接の加害者として、控訴会社はその使用者として、吉井一代の死亡によりその両親である被控訴人らの受けた後記精神的苦痛に対し、慰藉をなすべき義務があるというべきである。
成立に争のない甲第二号証の記載、原審における被控訴人両名の各供述によれば、当時、被控訴人輝二は四五才の会社員で一ケ月手取り金三万円位の収入があり、自己の所有家屋に居住し、同千鶴は四〇才で毎月金二、〇〇〇円か三、〇〇〇円程度の内職収入あり、一代と雅則(昭和三〇年五月生)の二人の子供を擁して円満な家庭を営んでいたもので、一代は年の割には、はきはきしたもの判りのよい健康な子供であつたことが認められるから、一代が本件のような事故で死亡したことにより、被控訴人らはその両親として甚大な精神的苦痛を蒙つたことは明らかであるところ、前記甲第八号証、第一〇号証の一の各記載、原審証人品田巳作の証言、原審における被控訴人吉井輝二、控訴人天野昭吾、控訴会社代表者宮下定雄の各本人尋問の結果を綜合すると、控訴人天野は事故当日の晩、一代の霊前に花環を供え通夜に列席し、翌日同女の告別式には香典五〇〇円を供え、葬儀に参列したほか、初七日、ふた七日、三五日の供養にも列席したこと、控訴会社の代表取締役である宮下定雄は事故当日の夕方、見舞品と金二万円を持参して被控訴人らに陳謝の意を表し、告別式には香典千円を供え葬儀に参列したほか、控訴会社の係員をして初七日、ふた七日、三五日の法要に列席せしめたこと、控訴会社の資本金額は一五〇万円ではあるが、従業員の数は四〇人を下らず、大型自動車一三台のほか乗用車その他の自動車四台を所有し、年間の営業高は九千万円近くあり、砂利採取販売業を営む会社としては群馬県内において上位に属すること、控訴人天野は中学卒業後、農業、製材工を経て昭和三二年九月控訴会社に自動車助手として雇われ、昭和三四年一一月大型自動車の運転免許を得てから、自動車運転者としてダンプカーの運転業務に従事しているもので、当時一ケ月の収入は約二万円であつて、その他に資産がなく、本件事故につき起訴され罰金五万円に処せられたこと、被控訴人らは一代の葬儀、埋葬等に金一三万円ほど出費したが、本件事故により自動車損害賠償保障法に基づき、一代に対する賠償金として金一七万円を受領したこと、以上の各事実を認め得る。右事実に、本件事故の経過について認定した諸般の事情などを勘案すれば、被控訴人らの前記精神的苦痛は、それぞれ金二〇万円をもつて慰藉されるものと認めるのが相当である。
控訴人ら主張の過失相殺の抗弁について按ずるに、前に認定した本件事故発生の経過についての事実からすれば、福山田鶴子は保母として、一代を含む園児らの一団を前記のような丁字路附近を引卒するに当つては、園児らを交通事故から護るため、園児らが隊列を離れ各自の行動にでないよう十分配慮し、監護すべき義務があつたものというべく、もし、同保母が一代の手を離さず、また離すにしても同女に対し列から離れないよう云い聞かせるなどの措置をとつていたなら、本件事故の発生を防止し得たであろうのに、同保母において叙上の措置にでず、漫然一代の手を離したのであるから、同保母は一代の監護につき過失があつたもので、右過失は本件事故発生の一因をなしたものと認めるのが相当である。しかし、原審における証人佐復フミ子、被控訴人吉井輝二、同吉井千鶴の各供述を綜合すると、一代の入園に当り城東保育園と入園児の保護者らとの間に、園児の登園帰宅の際は、前記空地と保育園との区間は保育園側において監護の責任を受け持つ旨の取り極めがなされ、右取り極めにより同保育園はその保母をして前記区間における園児の登園帰宅の際の監護をなさしめていたことを認め得るから、福山田鶴子は右保育園の被用者として、本件事故当日右空地に集つた一代その他の園児を引卒監護していたものというべく、右認定を覆えして、同保母が一代の両親である被控訴人らとの個々の委任に基づき被控訴人らの被用者たる立場で、一代の監護をしていたものであることを認めるに足る証拠は存しない。
控訴人らの側からみれば、福山田鶴子は被控訴人ら側の人とみられるようでもあるが、福山田鶴子と被控訴人らとの関係は右認定のように、直接の関係になく、同人は保育園の被用者として一代の看護に当つていたのである。従つて、本件のような場合には、被控訴人両名は控訴人両名ばかりではなく、福山田鶴子をも共同被告として損害賠償全額を請求した場合には、福山田鶴子は共同不法行為者として控訴人両名と共に損害賠償額全部について連帯して支払の責に任ずべき関係にあるものである。従つて、控訴人両名がその賠償額の一部を福山田鶴子に求償を求め得るとしても、被控訴人両名の損害賠償の請求は、福山田鶴子の過失を斟酌して減額される関係にはないと解するを相当とする。これと反対に、控訴人ら主張のように、福山田鶴子の過失を被控訴人らの損害賠償請求額につき斟酌することは、過失相殺の根本法理である衡平の観念に却つて反することになる。よつて、福山田鶴子の前記過失は、民法第七二二条第二項に規定する被害者(もしくは被害者側)の過失に該らないと解するのが相当であるから、右過失は控訴人らの支払うべき慰藉料の額を定めるにつき斟酌すべきものではない。
控訴人らは、昭和三七年六月一六日控訴人らと被控訴人らの代理人である訴外上原仁三郎との間に、本件事故に関し控訴人らから金一七万円を被控訴人らに支払うことにより示談解決する旨の和解が成立したと主張する。原審における証人品田巳作、控訴会社代表者宮下定雄本人の各供述中には、右主張に副うような部分があるが、右供述部分は、いずれも措信し難く、その他に右主張事実を認めるに足る証拠はない。控訴人らの右主張も採用できない。
それなら、控訴人らは被控訴人らに対しそれぞれ各金二〇万円宛および右各金員に対する本件訴状送達の日の翌日であること本件記録上明らかな昭和三七年八月二六日以降完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務あること明らかであるから、被控訴人らの本訴請求は右の限度において正当として認容すべく、その余は失当として棄却すべきである。
よつて、右と同趣旨にでた原判決は相当であつて、本件控訴はいずれも理由がないから、民事訴訟法第三八四条第一項により、これを棄却することとし、当審での訴訟費用の負担につき、同法第九五条、第八九条、第九三条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 村松俊夫 江尻美雄一 兼築義春)